教育に対して、日本と海外では大きな考え方の違いがあります。日本では、教育の目的が「大企業に就職するために、良い大学に入ることだ」という考え方が未だ根強く残っています。良い大学に入れば、教育の目標を達成したように思う人が多くいるもののです。多くの大学では必要な出席率を満たし、課題を提出することで単位がもらえ、卒業できます。極端な言い方をすれば、受け身で最低限の知識を身に着けただけでも、卒業できます。これに対して海外では、教育を自分が生きていく上で何をしたいのかを考え、その準備や知識、経験を得るためのものと捉えているところが多いです。日本では授業が受け身になっていることが多いのですが、海外では積極的に自分が知りたいことを知るために、主体的に発言することが当たり前と考えられています。
日本の学校教育で求められてきたものは、国や会社の維持・発展に役立つ人間を育成することでした。わかりやすく言えば、均一的な兵隊を作り上げることでした。忠犬ハチ公のように黙って指示に従う労働者の量産することが目的であったようです。日本人が優れていると世界から認められていたのは、日本人の能力が均質化していて、20世紀型のやり方で労働生産性を向上させることができたことです。
しかし、それはすでに時代遅れなのだと感じます。現代の国際情勢やAIの発展を見れば、その教育方針がオワコンであり、意味のない時間の浪費を強いていると言っても過言ではないかもしれません。
記憶力をどんなに高めても、AIにはかないません。分析力を高めてもAIにはかないません。AIは現在、様々な分野で活用され、その可能性は日々拡大しています。AIの進化は人類の知能を超える「シンギュラリティ」は2040年には訪れると言われています。
そもそも、学校という環境において、身に着けるべきことは知識だけではないはずです。これからの教育では、自由に発想できて、思ったことはきちんと言葉にして説明できること。それについて互いに意見交換をしたりしながら、創造力を培っていくことが求められています。そんな中で、他者を認めたり、共感したりしながら、協調性や社会性をも身に着けていくことが必須です。
いい大学に入って、いい会社に就職することだけが人生の目的ではありません。どんなにいい会社に入って、多くの報酬を得ても、退職する人はとっとと退職してしまいます。さまざまな価値観が共存する世界で、自分の人生を納得できるものにするために、自分と向き合って、自分の考え方の癖に気付いたり、自分の進みたい道を見つけたりできる環境を整備していく必要があります。このままでは、日本は世界からどんどん取り残されていってしまいます。
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