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■PHILOSOPHY / 022:情緒を理解できない大人たち

 
 
情緒を理解できない大人たち
 

情緒を理解できない大人たち

情緒文化が衰退した日本では、物事を一方向からしか見ることができない大人が多いようです。物事の一側面しか理解できないから、すべてのものごとをいいか悪いかでしか判断しません。物事を正義と悪に分断して、ひとつのものに一つの意味を持たせる手法は一神教の宗教がやる手口です。

虫の音を愛でる感性はもともと欧米人にはありません。欧米人にとって鈴虫の鳴き声は聞こえないそうです。周波数を拾えないから聞こえないのだそうです。しかし、現代日本人にとっても、川の流れに人生を感じたり、サクラが散るのを見て哀れを感じたりする感性はもうあまりありません。唯一、サクラが花見というレジャーになっただけのことです。日本人はもともと情緒豊かな民族でしたた。短歌や俳句が文化として根付くような情緒を重んじる風土がありました。情緒とは、俳句や短歌がそうであるように、ひとつの言葉に複数の意味合いを持たせて、奥深さを楽しむ文化でした。言葉は情緒の表れで、言葉は文化そのものでした。

しかし、現代はどうでしょう?差別的な言葉や表現はタブーとされ、NGワードが選定されます。いつの間にか、「情緒的であること」が否定され、反対に「合理的であること」だけが求められる世の中でになりました。合理性ばかりを追い求めることは、同時に感性豊かな情緒を削いでいくことに他なりません。そもそも今の時代を生きている私たちが「合理性ばかりを追求し過ぎている世の中であること」を認識しているのでしょうか。

ひとつの言葉は、いろいろな意味合いを持ちながら存在しています。それを前後の文脈で判断して、どういったニュアンスで受け取るのかで意味合いが変わります。新聞やテレビなどのメディアは文脈をそぎ落として一部分だけを公開して誰かを攻撃する材料にします。

中日ドラゴンズの応援歌のフレーズ「お前が打たなきゃ誰が打つ」について、選手を「お前」と呼ぶのは避けてほしいと球団が応援団に要請したことが話題になりました。中日の与田監督は応援歌の「お前」について、「子供の教育上よくない」という見解も示しました。吉本興業の新入社員が「お前」と呼ばれたことを理由に退社した、というニュースが話題になりました。もしその呼び方が高圧的なものだったなら、嫌な気分になるのは当たり前です。もちろん、『お前』は元々敬意の含まれていた言葉だからよい」という意見もありましたが、「お前」という言葉自体に問題があると社会全体が決めつけて、一律に「お前」を排除する、という方向に向かうとすればそれは少し筋違いなことのような気がします。

日本国語大辞典2版によると、「江戸前期までは、敬意の強い語として上位者に対して用いられたが、明和・安永(1764~81)頃には上位もしくは対等者に、さらに文化・文政(1804~30)頃になると、同等もしくは下位者に対して用いられるようになり今日に至った」とあります。「貴様」も「手前(てめえ)」も同じような変遷をたどった言葉です。お互いの距離の近さや会話の雰囲気が重要なファクターである事は明白ですが、使い方に幅のある言葉であることを知る必要はないでしょうか。残念ながら、そこに親しみや愛情の表れを感じることができない情緒の無さを問題にするべきなのではないでしょうか。

言論統制は文化を破壊します。ヌードは芸術かワイセツか・・・それは見る側の立場が決めてることに過ぎません。相手を不快にするからという理由になっている言葉には、おし、めくら、つんぼ、特殊学級、白痴、毛頭などもあります。「バカ」という言葉についても同じです。これを差別だとか不快だとか感じる人は、心にゆとりがない人。自分の情緒の無さを棚に上げて、相手を差別だと言ってののしりだすありさまです。それは被害妄想でしかありません。コンプレックスの表れでしかありません。自分勝手な屁理屈で、自分はこんなひどいことをされたと騒ぎだす。ここに情緒を感じられず、マイナスの意味としか理解できない大人が多半を占める時代です。こうして日本では、文化や芸術はどんどん育たなくなっていきます。


 
 
 
 

 

 
 
 
 
 
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